大判例

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東京高等裁判所 昭和46年(ツ)35号 判決

上告人

咸石興

代理人

渡辺喜八

被上告人

宮島シヨ

代理人

金田善尚

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人等の負担とする。

理由

本件上告の趣旨は、原判決を破毀し更に相当の裁判を求める、というにあり、上告理由は別紙記載のとおりである。

上告理由第一点について

一、原審が上告人に有利な証拠を措信し難い理由の一つとして契約証書が作成せられた形跡がないことを挙げたことは相当であつて、趣旨にいう反対の推論が可能であるということはこれを違法ならしめるものではない。けだし、新たな賃貸借契約が成立したこと(従つて債務名義記載の明渡義務が消滅したこと)は上告人等の立証責任に属する事項であり、前記の事項はこれに対する反証であつて、しかも唯一の反証ではないこと原判文上明白であるからである。

二、宮島宏之が昭和三六年七月当時入院療養中であり、外出やキャバレー等で飲食できる状態でなかつたという事実もまた前同様反証に属する事項であり、原審がその挙示する証拠によりこれを認定したことに何等違法とすべき点は見出せない。同証人の証言が第一、二審において齟齬する点のあることは論旨指摘のとおりであるが、原審は第二審において提出された証拠、ことに書証に基づいて第一審における証言を措信し難いものとしたことは、その説示に徴し優に了解し得るところであつて、論旨は畢竟原審が適法になした証拠の採否を攻撃することに帰し、理由がない。

三、被上告人が執行申立を取下げたことその他上告人等の指摘する諸点が上告人等に有利な事実であることは所論のとおりであるが、原審は根拠を示さずしてこれ等の事実を採用しなかつたものではなく、判決理由二の3においてその証明力を減殺する諸点を詳細に説示しているのであつて、審理不尽または判断遺説の違法はない。

四、原判決二の3の説示に対する反論は、原審の証拠採否に対する非難にすぎず、原審の証拠判断が明らかに条理もしくは経験則に違背したものと解すべき何等の根拠もない。《以下省略》

(近藤完爾 田嶋重徳 吉江清景)

上告理由書

第一点 原判決には、条理若しくは経験法則及び保証法則に違反して事実を認定した違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすことが明かで、破棄を免れないものである。

一、原判決は、判決理由二、の1に於て、「被上告人(控訴人)方ではその所有建物を賃貸する際通常賃貸借契約証書を作成することにしていたから、仮に上告人(被控訴人)等主張のような賃貸借契約が締結されたとすると、その成立の経緯からして契約証書が作成されることが必須であると考えられるのに、その旨の書面を作成したことが認められない」とし、これをもつて、上告人等の主張を排斥する一つの理由としている。

然しながら、賃貸借契約証書の作成されない賃貸借契約が多々存することは公知の事実といつても過言でないし、仮に通常賃貸借契約証書を作成していたとしても、このことから、全てに亘つて賃貸借契約証書を作成していたとは限らず、ましてや賃貸借契約証書が作成されなかつた故をもつて、直ちにその賃貸借契約の成立を否定し去ることが出来ないことは論を俟たない。右判示は、被上告人方では通常賃貸借契約証書を作成していたのに加えて、仮に上告人等主張のような賃貸借契約が締結されたのであるならば、その成立の経緯からして賃貸借契約証書の作成が必須であると考えられる。というのであるが果してそうであろうか。確かに当時賃貸借契約証書が作成されたならばかゝる紛争を生じなかつたであろうが、他方、当時右契約書が取交されなかつたのは、上告人等と被上告人間に於て円満に示談が成立し、上告人等が従前どおり使用収益出来るよう賃貸借契約を締結したがため、殊更その必要がないと考えられたからとも推量出来るし、又被上告人側に於てしばらくは賃貸借の実を上げつゝ将来必要の際調停調書に基き明渡の強制執行をせんとする底意より、わざとそれをなさなかつたからとも推量出来るものである。そして若し被上告人が主張する如く、上告人等が暫時の明渡猶予を懇請したので、これを容れたに過ぎないというのであれば、却つて被上告人側では、当時明渡の強制執行に着手していて絶対的な優位の立場にあり、加えて執行を取下げたため無効にならないよう配慮したという位であるから(第一審に於ける宮島宏之の第一回証言)、若しそうならば、上告人等に対し如何なる文言、内容の誓約書若しくは念書等をも要求出来た筈であるし、実際にも要求したと思われるのに、この種の書面すら逆に又存在しないものである。特に昭和三六年の執行委任、その後取下げてから、本件の執行までの六年間とその間の賃料値上の事情は単なる猶予と解する合理的な事情は何等存在しない。

以上要するに右判示は、上告人等の主張を排斥するためにだけに事理を片面的に推論した誤りがあるといわねばならない。

二、原判決は、同じく判決理由二の(1)に於て、「昭和三六年七月当時宏之は、肺結核のため長岡市の病院に入院中であり、病状は安静度二で医師から絶対安静を命ぜられ、入浴歩行も禁止されていた状態であり、また同年六月末に手術をした脱肛も完治していなかつたため、外出は勿論キャバレーなどで飲食のできる状態ではなかつた(第一審に於る同人の証言中、これに反する証言部分は措信できない)ことが認められる」とし、これをもつて、同じく上告人等の主張を排斥する一つの理由としている。

然しながら、肺結核で入院し絶対安静等を命ぜられていたということと、外出や飲食をしようと思えば可能であつたかどうか又は実際にしたかどうかということは別個の問題であるところ、右宏之は、例えば乙第三〇号証中の看護日誌の当初に記載ある如く、昭和三六年六月一〇日に受けた肛門の手術は経過良好であつたこと、同年同月二二日に肺結核で入院するについては独歩で入院していること、肺結核と診断されたのは右手術後に微熱等があることから偶々精密検査を受けた結果であること等が窺われ、してみれば、肺結核と診断される迄は常人と変りない生活をしていたと思われるし、肺結核と診断され入院した後急激に病状が悪化し常人と同じ運動や飲食が不可能になつたとは到底思われない。

右宏之は、第一審の第一回尋問(昭和四四年一月二二日)の際には、昭和三六年七月八日頃に上告人咸や訴外国本と一緒に長岡市内のキャバレー「ナポリ」へ行き飲食を共にした事実を反対尋問で認めた外、その前後にも数回に亘り外出ないし在宅していたことが窺われる趣旨の証言をなしていたところ、第二回尋問(同年五月二八日)の際には、右証言をことごとく翻えして、昭和三六年七月前後は絶対安静で一歩も外出しておらず、従つて人に会うはずもない旨証言し、原審の第一回尋問(昭和四五年七月二日)の際にも昭和三七年八月まで全然外出していない旨証言している。

しかし右昭和三六年七月八月頃は、右宏之にとつて、肺結核で入院した当初であり、調停調書に基き初めて強制執行に着手し、しかも上告人等より賃貸借の申入れがあつて、未だ取下していないなど、いろんな意味で特殊の時期であつたから、右宏之がその時期や前後の記憶違いをしたとは到底考えられず、前記一審第一回の証言を翻えした後の証言に、その不利なことに気付き、入院中で絶対安静を要する病状であつたということを単なる口実にして故意に作為した疑いが十分にあり、このことは又、右宏之が、昭和三七年八月まで全然外出していないと証言しているのに、実際は、例えば乙第三〇号証中の看護日誌、主な看護計画等の記載を精査すれば、その間にも、病院からの外出、外泊がよくあり、しかも再三に亘る無断外泊さえあつて注意されている事実が窺われることからも、容易に推察出来るものである。

以上要するに右判示は、信用し難い証言をそのまゝ採用し、又書証を詳細に検討しないまゝ採用した違法があるといわねばならない。

三、原判決は、判決理由二の2に於て、「被上告人(控訴人)が執行申立を昭和三六年一〇月一五日取下げ、又調停調書の明渡期限までの約定損害金月額七、〇〇〇円を昭和四二年一月までの間数回に亘り月額二八、〇〇〇円にまで増額したこと、上告人(被控訴人)等が昭和三七年六月頃本件建物の屋根を板葺からセメント瓦葺に葺き替え、又昭和三八年頃第一審判決添付別紙図面記載ワの部分を台所に改造したこと等の事実を認定し、これらの事実を綜合してみても、かような外形的事実から直ちに上告人等主張の賃貸借契約の締結を推認するには十分でなく、他に上告人等の主張を認めるに足る証拠はない」とし、これをもつて上告人等の主張を排斥する一つの理由としている。

然しながら、建物賃貸借契約の如き継続的且つ表現の法律関係、しかも本件の如き賃貸借契約書が作成されずそうかといつて単に明渡期限の猶予に過ぎない旨の書面さえも作成されず、それがためその契約の成否が争われている事案については、相対立する各当事者本人、証人の供述、証言と同等若しくはそれ以上に、従前の外形的事実をこそ重視して、主要事実認定の資料となすべきことは法理上当然である。してみれば、右判示の掲げる外形的事実は、これのみにては上告人等の主張を認めえないとしても、少くとも上告人等の主張を推認せしめて、上告人等に利益となる事実ばかりであるにも拘らず、右判示は、その証拠価値を消極的若しくは否定的な面からのみ判断して、かような外形的事実から直ちに上告人等の主張を推認せしめるに十分でないとして、その結果は外形的事実の有する証拠価値を全く無視したのと同様になる推論を展開した誤りがあるといわねばならない。

なお右判示中、「……控訴人の承諾を得ていなかつたにせよ……」、「……他に被控訴人らの主張を認めるに足る証拠はない。」とある点についてては、審理不尽若しくは判断遺脱の違法があり、それは後述のとおりである。

四、原判決は、判決理由二の3に於て、被上告人提出の乙号証及び証人宮島トシエ、同宏之の各証言から、被上告人の主張を全てに亘つて認めている。然しながらその挙示する乙号証及び証人については、夫々次の如き反論が十分可能なものである。即ち、

(1)乙第一号証の二、三、第二号証の一、二、第三号証、第四号証の各内容証明郵便による催告書は、いずれも、被上告人方に於て、昭和三六年七月に明渡の強制執行手続をとつた際、上告人等より強く賃貸借の申入れがあつたのを期に(これを予期していたと考えられないでもない)。本件建物は元来貸家であつて、明渡後の処分について特に予定がなかつたので賃料増額を条件に貸借を承諾し、しばらくは賃貸借の実を上げつゝしかし将来必要の際は再度明渡の強制執行をなし得るよう、その際異議等の出る余地をなくしようとの意図からと、滞納賃料の催告とを兼ね併せて発信したものとも推認され、このことは、証人宏之の第一審第一回尋問(昭和四四年一月二二日)中に、「……記録がないと悪いというので内容証明を五六回出した」旨の証言。その内容証明による明渡の催告の時期、態様、その後何らの措置をとつていない事実等から十分窺い知ることが出来るものであつて、勿論このような策は賃貸借法上も執行法上も到底許されるべきものではない。

(2)乙第九、第一〇号証の執行期日延期申請、第一四、第一六ないし第一九号証の執行吏からの葉書については、そもそも被上告人に於て、執行費用の予納すら放置して執行吏より督促を受けているところから(乙第一三、第一五号証)、実際に明渡の強制執行を断行する意思であつたかに疑いがあるばかりでなく、若しそうでなかつたとしても、上告人等と被上告人間で爾後賃貸借していくことに示談が成立したので、本来直ちに取下すべきものを、前述の如き勝手な意図若しくは無思慮より、単に延期申請を繰返していけばよいと考えたため、人夫の調達や連絡さえも放置し、それで当該執行吏の憤激を買つた結果、取下げたものとも推認されるものである。

(3)証人宮島トシエと同宮島宏之は、被上告人の娘と孫であり、少くとも本件建物の管理一切は同証人等が共同して代行代理して来たものであるから、本件については殆んど被上告人と同視してよい立場にあり、従つてこれを斟酌した上でその証言価値を評価しなければならないものであるところ、実際にも各証言は、重要な点について前言を翻えしたり、互いに相反する点があつたり、更には余りにもあいまいな点が多いなど、到底その全部を信用し難いにも拘らず、右判示は、その証言をそのまゝ認め、上告人等の主張立証を一蹴するという、凡そ条理若しくは経験法則に違反した事実認定をなしたものである。

第二点 《以下省略》

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